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★今日の地図
★今日の予定。○下車 ◎入場
午前:タシュケント観光。
○バラクハーン・メドレセ 済
○バザール 済
☆タシケント地下鉄乗車体験 済
昼食
午後:タシュケント観光。
○日本人墓地
○ムスタキーリク広場
◎ウズベキスタン工芸博物館
○ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場
夕食
夜:移動
タシュケント 22:05発 → 飛行機 HY527便→ 成田 翌日 09:55着 飛行時間は7時間50分
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★ムスタキーリク広場(Mustakillik Maydoni)
12:02、赤色のチランザール線 (Chilonzor) のムスタキーリク広場(Mustakillik Maydoni、Mustaqilliq Maidoni)駅で降りた。階段を上ると、ムスタキーリク広場だった。ここに、12:30までいたので、滞在時間は28分だった。
ムスタキーリク広場駅を振り返って、上ってきた地下鉄の階段を撮る。
===以上は「江見さんの写真」
★ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場(Navoi Theater)
12:43、ナヴォイ・オペラ・バレエ劇場(Navoi Theater)に到着。
日本語で日本人のことが書いてある。
ソ連は、レーニンによる政権樹立を行なった1917年11月の革命30周年にあたる1947年11月までにこの劇場を建設することを決定して建築を進めていた。そのため大戦後、日本人捕虜を活用して革命30周年に間に合わせることを命題とし、建築に適した工兵457人の日本兵が強制的に派遣された。隊長は永田行夫(当時25歳)。(出典:ナヴォイ劇場 – Wikipedia)
1996年、ウズベキスタン大統領イスラム・カリモフが、建設に関わった日本人を称えるプレートを劇場に設置した。その際の指示は「彼らは恩人だ、間違っても捕虜と書くな」というものであった。プレートは、ロシア語、日本語、英語、ウズベク語で書かれ、日本語は「1945年から1946年にかけて極東から強制移送された数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイ―名称劇場の建設に参加し、その完成に貢献した。」と書かれている。(出典:ナヴォイ劇場 – Wikipedia)
2015年9月30日にジャーナリストの嶌信彦は隊長の永田行夫など実際に建設に携わった多くの方の取材を元にナヴォイ劇場建設の秘話をノンフィクション『日本兵捕虜はシルクロードにオペラハウスを建てた』として角川書店から出版した。この本には詳細な抑留生活やウズベク人との交流などが描かれ、これまで出版された多くのシベリア抑留の悲劇とは違った日本人の勤勉で素晴しい和の精神などの秘話が描かれている。(出典:ナヴォイ劇場 – Wikipedia)
しかし、日本人ツアーが観光で来るのだから、劇場の中を見る旅行企画にすべきでしょう。